白くあかるい死の床で——詩集『智恵子抄』にみつけるケア

目次

詩集「智恵子抄」に見る死の間際

皆さんは国語の教科書に載っていた文章をどのくらい覚えているでしょうか。

メロスは激怒したー…から始まる走れメロス

そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだなー…少年の日の思い出

ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのはー…ごんぎつね

 

では、『レモン哀歌』という詩はどうでしょう? 死の間際にあってレモンをがりりとかじり、トパアズいろの香気を立てる智恵子。多くの中学国語用教科書に掲載されている詩です。

この詩のモデルとなった女性は高村智恵子といい、西洋画を学んだ画家でもあります。

1886年に福島県で生を受け、1938年東京のゼームズ坂病院で粟粒性肺結核のために亡くなりました。

彼女の夫 高村光太郎(詩人・彫刻家)が書いたこの『レモン哀歌』により、その死の床にあった人として人々に知られています。

この詩は、入院中で病状が悪化していく智恵子のもとに光太郎が訪れた時から話が始まります。

 

レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待っていた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
こういう命の瀬戸ぎわに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓※でしたような深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置こう

※山巓[さんてん]…山のいただき。山頂。智恵子がかつて健康だった頃に光太郎と登山をしていた。

昔読んだ本を再読すると、往々にして新しい発見が得られるものですが、この詩も大人になってからでは感じ方が変わってくるのではないでしょうか。

この『レモン哀歌』含む、光太郎による智恵子の詩や短歌などが編まれた詩集が『智恵子抄(ちえこしょう)です。

二人が結婚する以前から、智恵子が統合失調症(当時の精神分裂症)を患い、入院。そして肺結核を患い、亡くなり、光太郎が悲嘆しながら、彼女の死を受容してゆくまで。

悲しいながらもどこかに光を感じる、白くあかるい死の床を記した智恵子抄には、1912年から1941年までの、およそ30年にわたって書かれた作品が収められています。

 

今回は、教科書でよく見る『レモン哀歌』を含む『智恵子抄』の詩を読みながら、彼女たちを取り巻いていたケアを覗いてみましょう。

妻をケアできない苦悩が詩に表れる

智恵子と光太郎は、当時まだ珍しかった恋愛結婚によって結ばれました。

どちらも芸術家であった二人は、家庭を営みながらも、互いの芸術活動を続けられるように励んだそうです。

 

しかし智恵子は芸術活動の低調、生家の破産、仕事による夫の長期不在といった様々な要因から体調を悪くしていきました。

ある年の夏に起きた自殺未遂を契機にその不調は顕著なものとなり、その3年後にゼームズ坂病院へ入院することになります。

 

『智恵子抄』にはこの3年間につくられた詩は、次に掲げる一篇しかありません。

彼女の入院直前にかかれたこの短い詩からは、光太郎自身の芸術上の成功に反して、自身の一番近くにいる妻を満足にケアできない苦悩がよく分かります。

 

人生遠視
足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる

 

とはいえ、ゼームズ坂病院には彼女の姪にあたる宮崎春子氏が一等看護婦(現在で言う師長)として勤務していたこともあり、「戦前の精神科病棟」と聞いて私たちが想像するより、その尊厳の守られたケアがなされていたようです。

宮崎氏の回顧録『紙絵のおもいで』を読むと、看護にあたって心を尽くした様子がうかがえます。

 

また、入院中の智恵子は盛んに切り絵の「仕事」に励んでいて、見舞いに来た光太郎に見せるために作っていました。

光太郎はエッセイ『智恵子の切抜絵』にて「千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしそうなうれしそうな顔が忘れられない」と振り返っています。

今でもこの「仕事」は残っており、光太郎の詩集を飾る表紙として選ばれることも多いです。

愛する人との死別を詩の中で受容する

私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。

(高村光太郎『智恵子の半生』より)

 

『レモン哀歌』にうたわれているように、生涯の愛をかたむけた一瞬のすぐあとに、彼女は息を引き取りました。もちろん、光太郎の悲嘆は深いものでした。

 

荒涼たる帰宅
あんなに帰りたがっている自分の内※へ
智恵子は死んでかえって来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払ってきれいに浄め、
私は智恵子をそっと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
そうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうずまり、
何処かの葬式のようになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立っている。
外は名月※という月夜らしい。

※内[うち]…ここでは「家」の意。
※名月[めいげつ]…10月中旬から下旬に見られることが多い「十三夜」のこと。

 

実感のないまま、愛する妻の葬式が着々と執り行われていく。

この詩は智恵子の死から2年以上後にかかれたものですが、伝わる悲しみは生々しいです。

光太郎はどのように彼女の死を受容したのか。次に引用するのはその手掛かりになる詩です。

 

元素智恵子
智恵子はすでに元素にかえった。
わたくしは心霊独存※の理を信じない。
智恵子はしかも※実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火※を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北※。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい。
智恵子はただ嘻々※としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなお
わたくしの肉に居てわたくしに笑う。

※独存[どくそん]…他に依存せず、単独の状態で存在すること。
※しかも…ここでは「それでもなお」の意。
※燐火[りんか]…雨の降る夜や闇夜などに墓地や山野などで浮遊する青白い火。
※極北[きょくほく]…物事が極限にまで到達したところ。
※嘻々[きき]…「嬉々」と同義。

 

これが智恵子の死から10年以上経った頃の詩です。それだけの月日を経て、光太郎は智恵子を「わたくしの肉に居る」「元素」であるとして捉え、その死を咀嚼したようです。

その後、光太郎自身が1956(昭和31)年に亡くなるまで、「元素智恵子」と生き続けたのでしょう。

 

さいごに

智恵子と光太郎の紡いだ日々は、遠く年月を隔てた私たちの心をも揺さぶります。また、誰かを想い心を尽くすケアの営みが絶えず続いてきた事実を教えてくれます。

今回紹介した詩のほかにも、たくさんの詩を高村光太郎は書いています。気になった方はぜひ本を手に取ってみてください。

※引用・作品名は、高村光太郎『智恵子抄』(1956年7月、新潮社)に拠る。なお、旧仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。

※語注は『精選版 日本国語大辞典』(2006年、小学館)を参考。

 

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